諏訪形の道祖神をめぐる

 諏訪形地区内にある「道祖神」については『諏訪形誌』の208ページをご覧ください。

 5月30日(日)「諏訪形自治会交流親睦会」では「諏訪形誌活用委員会」とのコラボで 「諏訪形の道祖神を巡るウォーキング」と「荒神宮・諏訪神社を巡るウォーキング」が企画 されました。本資料は「諏訪形の道祖神を巡るウォーキング」の資料として、諏訪形誌刊行 委員長、諏訪形誌活用委員会顧問北沢伴康さんが作られたものの再構成版です。


道祖神の由来
 古代の人々は狩を中心として移動しながら生活をしていましたが、縄文時代の終わごろ (今から3000年くらい前)になると農耕をはじめ、共同体を作って一か所に定住する ようになりました。定住を始めた人々にとって脅威になるのは自然界で起こる様々な災害 や外部からの侵入者です。そして、村境は異境ばかりではなく他界との通路であり、外敵 や疫病などの出入り口とも考えられるようになりました。

 そこで、悪霊などの侵入を防ぐために、村の辻や村境などに「塞の神」が祀られるよう になりました。「塞の神」は平安時代以降になると「岐(くなど)の神−「岐」とは「分 かれ道」の意味を持つ言葉」とか「道祖神」とか呼ばれるようになってきました。「岐の 神」はあまり聞き慣れない名前ですが、民間信仰で「疫病や災害などをもたらす悪神や悪 霊が村に入ってくるのを防いでくれる神」とされています。これが、現在にも残る「道祖 神」の始まりと考えられます。そのため、現在「道祖神」がある場所は、もともと村のは ずれだった場所ということになります。

 諏訪形には5基の「道祖神」があります。それらのうち、田中組の道祖神は自然石でで きていて、銘がありません。また、2基並んで立っていますが、なぜそのようになったの かは不明です。東浦の道祖神は基壇石に凹状の穴(へこみ)が見られます。そのことから 考えると、この石は薬石として使われていたものなのかもしれません。

 一方、もともとは別なものだった「猿田彦大神」も中世末期(日本史では戦国時代にあ たります)ころから「道祖神」と同一視されるようになってきます。「猿田彦大神」は 『古事記』では天孫降臨の際に先導役を務めたとされる国津神で、後に伊勢国に鎮座した とされています。容貌魁偉で、鼻の長さは7咫(「咫(あた)」は古代の単位で、「1咫」 は「開いた手の親指の先から中指の先までの長さ」を示したもの)身長は7尺(2mあまり) とされ、「天狗の祖」ともいわれています。毎年2月、この「道祖神」の祭りが、子どもた ちを中心におこなわれて、現代に至っています。


昭和・終戦間際ころの諏訪形の道祖神祭りの様子
 昭和15(1940)年〜20(1945)年ころの諏訪形の道祖神祭りの様子について、 私(北沢)の経験をもとに紹介させていただきます。

 男の子は小学校に入学する前の年から「道祖神祭り」の仲間に入ることができました。前の 年の年末のうちに道祖神の小屋がけをする場所に穴を掘り、石を集めておきました。2月7日 の夕方から8日にかけてが「道祖神祭り」なので、それまでに小屋を作ります。この時、リー ダー(「大統領」と呼ばれました)の指示で,各家庭からいろいろなものを持ち寄り、2月6日 までには小屋を完成させました。「大統領」は尋常高等小学校の2年生(現在の中学校2年生) が務めました。なお、中等学校に進学した子たちは小学校6年生で退会することになっていまし た。また、そのころに諏訪形で「大統領」を務めた人として、次のような方々のお名前が残って います(名前の漢字表記は不明です)。
   
高町 : 裄Vトシヲ   増澤ハマヘイ
東浦 : 裄Vイサヲ   裄Vジュウジロウ
堂村 : 窪田カツヨシ  関崎ヨネヲ   小林マサト
  田中 : 横林ショウジ  窪田ユキヨシ

 2月7日の午前中に子どもたちは灯籠や桃太郎旗を設置し、お札(ふだ)を作ります。また、地 区内に知らせて回るための太鼓のひももしっかりと締めなおしておきます。午後5時半ごろになると、 5〜6年生がリーダーとなって7〜8人のグループを作り、太鼓をたたきながら地区内を回って、 道祖神に参詣してくれるように知らせます。地区内を何回も回ることもありました。前年に結婚し た家の前では特に盛大に知らせ、祝儀をいただくこともありました。

 夜10時ころになると、小屋荒らしが始まることがありました。他の地区に出かけて小屋を壊したり、 他の地区の子どもたちが小屋を壊しに来るのを防いだりが続きました。今考えてみると、戦争中のこと でもあり、「戦意向上」というような面もあったのでしょうか?この時にも「大統領」が中心になって 活動しました。

 2月8日になると、子どもたちは午前7時ころに集まって地区内を回り、「餅持ってとんでこうよ!」 「粉餅や鍋餅はやだぞう!」などと言いながら、道祖神にお供えするための餅を集めました。なお、 「粉餅」とは籾摺り(もみすり)の時に籾摺機からもれた米、通称「青米」を主体とした餅で、「しいな餅」 とも呼ばれるものです。また、「鍋餅」とは、餅つきをしない餅のことで「おはぎ」もような餅のことを 指します。

 各家庭ではこれに応えて、藁苞(わらづと…藁を編んで作った器のこと)に餡(あん)と黄な粉の餅を 入れたものを3俵作り、それをわら馬に乗せて道祖神にお供えしました。帰りには他の家からの餅を1俵 もらって帰り、家に帰るともらって来た餅を食べて、健康長寿を願いました。

 おおかたの参詣者がなくなると、子どもたちは小屋を取り壊して、借りたものをそれぞれの家に返しまし た。片付けが終わると一旦解散して、午後4時ころに「大統領」の家に集まり、混ぜご飯に竹輪と豆腐が 入った汁をごちそうになりました。この時、大統領は道祖神の賽銭で買った学用品などを子どもたちに配って、 道祖神祭りは終わりになりました。