曹洞宗 玉祐山 金窓寺


 諏訪形誌活用委員会では2021年8月8日に「金窓寺」の見学会を企画しましたが、 新型コロナウィルス感染症の広がりで、残念ながら延期となってしまいました。

 本ページは、この見学会の資料として作られたものの中から、金窓寺の歴史などに関 わる部分をを再構成したもので、『諏訪形誌』本文の抜粋に、この資料のために新た に書かれたものを追加しました。

 なお、見学会の資料のうち、金窓寺の仏像などに関わる部分は、当ホームページの 「諏訪形誌をちょっとナナメに歩く」のページを参照してください。

玉祐山 金窓寺

 玉祐山金窓寺は禅宗(曹洞宗)の寺で、現在(2021(令和3)年)の住職は第22世藤原廣生です。
 この寺の本尊は阿弥陀如来です。禅宗の寺では、本尊は釈迦牟尼仏であることが多く (例外もあります)、阿弥陀如来は浄土宗の寺の主尊となってい ることが一般的です。 金窓寺の本尊が釈迦牟尼仏ではなく、阿弥陀如来である理由ははっきりしません。
 なお、小懸郡史など既刊の書物には「金窓寺の本尊は釈迦牟尼仏である」と書かれて いるものが多く見られますが、誤りです。また、『諏訪形誌』277ページの記載も改め る必要があります。




 金窓寺の寺伝によれば、この寺は武田家滅亡(天正10(1582)年)の後、武田家 にゆかりのある女性、玉窓妙金法尼がが一門の菩提を供養するため、小牧山系諏訪形地籍 字西山の地(通称「権現山」。現在の御所地籍に近い場所で、送電線の鉄塔があるあたり) に小庵を構えたのが始まりとされています。この場所は「三本松」から西(原峠の方向) に少し行ったあたりで、その場所には現在、高さ約60cmの石祠(霊廟型卒塔婆)があり ます。石祠の左側面には次のような文字が線刻されています。

金窓寺六世祖門曇庭大和尚
享保十七壬子九月吉日


 線刻からこの石祠は、開祖である玉窓妙金法尼が当初居を構えた場所を後世に伝えるために、 金窓寺第6世の祖門曇庭和尚が残したものと考えられます。


 その後、金窓寺は里へ下り、慶長元(1596)年4月、武田家一門の菩提供養のため、 東御市の興善寺7世通山全達師を拝請して「権現山金窓寺」を開山しました。前述の女性は 自らも出家し「玉窓妙金法尼」と名乗りました。「金窓寺」の名称も「玉窓妙金法尼」の「窓」 と「金」の文字から採られたものではないかとも推測できます。


玉窓妙金法尼

 金窓寺の開山、「玉窓妙金法尼」とはどんな女性だったのでしょう?記録からは「武田家に関係がある人」と いうことしか見つけられていません。しかし、この女性が持参したとされる「笈」について、少 しばかり興味深い話があります。

 武田家の地元、山梨県甲府市にある萬年山大泉寺に、金窓寺にあるものとよく似た「笈」が残っ ています。この大泉寺は、金窓寺同様曹洞宗の寺院です。武田信玄の父、武田信虎の菩提寺で、 武田3代の霊廟が置かれている寺でもあります。

 この寺には、武田信虎のものと武田晴信(信玄)のものとされる「笈」が残されています。女性が 金窓寺に持参したとされる「笈」は、大泉寺に残っているものとほぼ同等の立派なものなのです。こ のことから、この「笈」を持参した女性は、武田家の本流につながるような武将の関係者であったの ではないか、と想像できます。
 また、この女性が庵を構えた場所が通称「権現山」だったことも、諏訪形周辺と武田信玄 とのつながりを思わせます。「権現山」にほど近い、現在「倉升山」と呼ばれている山の旧称は「陣場山」 で、武田方が陣地を置いた場所です。小牧城と武田方との関係についても、諏訪形誌web版、DVD版 の「小牧城考」で論じているとおりです。

 金窓寺の境内には、歴代住職の墓所があります。玉窓妙金法尼の位牌(亡くなった当時のものではない) も残されており、「天照院殿玉窓妙金大庵主」と記されていますが、墓所についてはわかりません。



金窓寺はどこにあったのか

 この慶長元(1596)年4月に開かれた「権現山金窓寺」が、諏訪形のどの場所にあったのかははっき りわかっていません。金窓寺開山から100年ほど後、宝永3(1706)年に作られた、いわゆる『宝永 の差し出し帳』によると、「諏訪形には明神宮(現在の諏訪神社)、寺(金窓寺)、荒神堂(現在の荒神宮)、 観音堂、権現社、飯縄社、十王堂、薬師堂、山神2社(現在の上ノ山の神、下ノ山の神)、神明(須川)が ある」と記されていますが、それぞれの場所については明記されていないため、はっきりしません。

 諏訪形の字堂村地籍(現在の公民館北東側一帯)に「寺屋敷」と呼ばれている場所があります。この「寺 屋敷」という地名は、この場所に寺院があったことを伺わせます。また、このあたりからは五輪塔の一部と みられる石(「残欠」と呼ばれます)も見つかっていて、旧金窓寺はこのあたりにあったのではないかと推 測されます。

 ただ、平成19(2007)年発刊の『上田市誌 別巻5 図で見る街や村のうつりかわり』には、「こ の場所(寺屋敷地籍)には観音堂があった」との記述も見られ、はっきりと確定することはできません。この 『上田市誌 別巻5 図で見る街や村のうつりかわり』に示された観音堂の位置は、「寺屋敷」地籍の東に隣 接する場所のようにも見え、「寺屋敷に金窓寺があった」という見方をはっきりと否定する根拠にはなりにく いものとも考えられます。金窓寺が移転した後、その跡地に観音堂が建てられたという可能性もあります。

 なお、この「五輪塔の一部とみられる残欠(石)」は現在、細川明典宅の庭先に置かれており、見学させて いただくこともできます。


 その後、金窓寺は現在の場所に移転するわけですが、金窓寺に残されている元文3(1738)年の日付が 記された絵図面によれば、この当時、すでに現在地に移っていることがわかります。どのような理由で金窓寺 が現在の場所に移ったのかについては明らかではありません。

 一方、平成11(1999)年発行の『上田仏教会50周年記念誌』には、「寺屋敷にあった金窓寺が明和 年間(1764〜1772)に火災に遭い、その後現在の場所に移転した」と記されています。この「明和年間」 は、絵図面が残された元文3(1738)年よりも30年以上も後のことです。そうすると、この「元文3(1738) 年の絵図面」は現在の場所に移る前、「寺屋敷」にあったころの金窓寺の絵図面で、火災によって金窓寺は移転 した、ということなのでしょうか?また、もしそうでないとすると、金窓寺はいつ、どのように理由で現 在の場所に移ったのでしょう?まだまだ謎は多く残ったままです。


元文3年の金窓寺絵図面と金窓寺の移転

 ここまで述べてきたとおり、「旧金窓寺はどこにあったのか」「金窓寺はいつ、どのような理由で現在の場所に 移動したのか」は謎です。しかし、手がかりはあります。

 「絵図面」に金窓寺の敷地についての記載があります。それによると、「境内は南北80間、東西32間」 となっています。メートル法に換算すると、南北約140m、東西58mとなります。国土地理院の地図をもとにし て現在の金窓寺の敷地を測ってみると、南北は約150mです。「東西」についてはどの場所を測るかによってだい ぶ差が出ますが、概ね50m程度と見ることができます。

 一方、「寺屋敷」の広さはほぼ一辺が40m程度の正方形と見ることができるため、「絵図面」に示された金窓寺は、 現在の場所に建つ金窓寺のものである可能性が高いと思われます。これは、「明和年間に火災に遭って移転した」とさ れている『上田仏教会50周年記念誌』の内容と矛盾することになります。


 以下、かなり大胆な仮説です。

 この『上田仏教会50周年記念誌』に記載されている「明和年間(1764〜1772)」は「天和年間(1681〜1684)」 の誤りではないか、という考えです。転記の際に間違う、ということは経験的にもそれほど稀なこととは思えません。 そして、金窓寺の移転がこの時期なら、元文3(1738)年に描かれた「絵図面」が、現在の場所にある金窓寺である、 ということを矛盾なく説明することができます。

 この考えはあくまでも推測でしかありません。しかし、こんな身近な金窓寺のことにつても、実はよくわかっていない ことは多いのだ、ということです。



新しくなった金窓寺

 金窓寺の堂宇は、江戸時代に建てられたものでしたが、老朽化が目立っていました。そこで、平成11(1999)年8月、 開創400年の記念事業に併せて、本堂庫裏の新築が計画されました。檀徒など関係者の同意を得て、平成16(2004) 年に工事が開始され、翌年7月本堂上棟式が行われました。平成20(2008)年10月5日には系列の寺院や檀徒、工 事関係者などが多くの人たちが参列して、落慶法要が営まれました。新しくなった本堂は平屋建て、約90坪(約300平 方メートル)、庫裏は約200坪(約660平方メートル)で、総工事費は1億3524万円でした。

金窓寺に残る古笈

 金窓寺の寺宝に「古笈(こきゅう)(高さ84センチメートル、幅70センチメートル)」があります。「笈」とは「おい」 とも呼ばれ、行脚僧や修験者などが仏具や衣装、食器などを入れて背負うものです。寺伝では玉窓妙金法尼が持参したものと されています。前面は金銅板で五重塔や輪宝をあしらうなど、凝った技法が用いられており、また、内側には釈迦三尊や眷属 (けんぞく=脇仏)などの仏像が祀られています。なお、この古笈と、中に納められている仏像については、「諏訪形誌を ちょっとナナメに歩く」のページで紹介させていただいています。

 この「古笈」がいつ頃のものなのかについて、飯田市美術博物館に問合わせをしたところ、「他に類例があまりないのではっ きりとは判らないが、16〜17世紀ころ作られたものではないか。いずれにせよ貴重なものであると思われる」との回答を得 ています。また、この笈には成澤寛経による説明文が書かれていますが,残念ながら読み取れません。


コラム 金窓寺の名僧

 金窓寺12世に、崑山璞紋(こんざんぼくもん)という和尚さんがいました。高井郡福島村(現在の須坂市)の出身で、姓は 花井、号は崑山で、通夢道人とも呼ばれました。この璞紋和尚のもとに文化14(1817)年、大門四泊(現小県郡長和町四泊)の名主内 田安良太から「地元、大門にある慈福寺の住職になってほしい」という要請がありました。和尚はこの要請を受けて、四泊の慈 福寺へ移っています。

 崑山璞紋和尚は書に精通していて、特に中国の法帖を手本として日夜精進しました。「天満宮近くの湧き水「通夢清水」を使い、 毎日3合(540cc)の墨をすって書を習った」と言われます。その書を求めて近郷近在から多くの人たちが集まり、教えを請う 門弟たちも多くいました。加賀百万石の大名行列がこの地を通った時に、殿様が「田舎にもこんなすばらしい書家がいるのか」と 感銘を受け、村人に和尚のことを尋ねたという話も伝えられています。また、時の懸令川上氏が璞紋の書に感銘を受け、「憔獨庵」 の額(写真参照)を贈りました。

 崑山璞紋和尚の書体は独特なもので、和尚の絶筆となったとされている五反のぼり(長さ10m、幅1.4m)「惟民迪吉康 (「民を思い、吉康を導く」という意味)」は現在、長和町の指定文化財にもなっています。なおこの言葉も、璞紋が深く学ん だ中国の古典から採られったものです。

 崑山璞紋和尚は嘉永3(1850)年、74歳で亡くなりました。長和町慈福寺の本堂裏には璞紋の墓碑があります。また、 慈福寺の境内には門弟たちによって建てられた筆塚もあります。

 なお、崑山璞紋が四泊慈福寺に移った後、正鐘活眼大和尚が金窓寺13世住職となりました。

参考文献:『長門町誌(平成元(1989)年)』



上田市周辺と武田氏・玉窓妙金法尼

玉窓妙金法尼と上田地域との関わりについては、 「玉窓妙金法尼」に記したとおりです。 上田地域や諏訪形周辺は武田氏とのつながりが数多く確認できる地域であり、女性が「権現山」 に庵を開いたことも偶然とは言えないように思えます。ここで、もう少し武田氏・玉窓妙金法 尼と上田地域のつながりについて見ていきながら、玉窓妙金法尼がこの地に庵を構えたわけに ついても考えてみたいと思います。
                               武田信虎→

 天文10(1541)年、武田信虎(信玄の父)は「海野平の合戦」で海野氏を破って、東信濃 に足がかりを作りました。海野氏は「本海野」「海野宿」や「海野町」などで名が残るとおり、現 在の東御市を中心に勢力を持っていた一族です。海野氏に武田信虎代わって、この海野氏の所領と 海野城を受け継いだのは信玄の次武田信玄次男、信親で、海野城主となってからは「海野二郎信親」 と名のりました。信親は、生来目を患っていて盲目の半僧半俗の武将で、海野の地を好み、素庵で 生活していたと伝えられています。また、信親(龍宝)については「龍寳」「龍芳」「竜宝」「竜芳」 などの文字が見られますが、本稿では「龍宝」とします。
  ←武田信玄

 天文17年2月14日(新暦では1548年3月23日)、武田晴信(信玄)と村上義清が戦った 「上田原合戦」がありました。この「上田原合戦」は武田信玄が初めて敗れた戦として、歴史に名 を残しています。前述のとおり、この合戦の時に武田側の本陣が置かれた場所が「陣場山(現在の 倉升山)」で、後に玉窓妙金法尼が庵を構えた「権現山」のすぐ西隣の場所です。

 その後、眞田幸隆による砥石城攻略などがあり、天文19(1550)年には『武田晴信宛行状』 で眞田幸隆に対して「諏訪形300貫文」を与えることが約束されました。このあたりの経緯につい ては『諏訪形誌』49ページをご参照ください。このようなこともあって、天正10(1582)年 に武田家が滅びた後も、上田地域は武田氏に敵対する勢力はなく、武田氏に連なる人々にとって安全 な場所だったことが、玉窓妙金法尼がこの地に庵を構えたことと関係がありそうです。



ちょっとばかり参考までに…
 ここからは甲府(甲斐国)のいろいろな寺院がでてきますので、整理しておきたいと思います。

萬年山大泉寺(前出)
  ・武田信玄の父、武田信虎の菩提寺で、武田3代の霊廟が置かれている寺でもあります。
  ・この寺に、武田信虎のものと武田晴信(信玄)のものとされる「笈」が残されているのですが、
   この「笈」は金窓寺の寺宝となっている「笈」とよく似ています。

長元寺(現:法流山入明寺)
  ・勝頼が長篠の戦いで敗れた時、住職だった栄順が信親を海野から呼び戻して、匿った寺です。
  ・天正10(1582)年、勝頼が天目山の戦い敗れるとで信親はこの寺の境内で自刃しました。
   享年42歳でした。
  ・入明寺には信親の墓所や位牌、信玄から8代後の護信が作ったとされる信親の木造も残っています。

長延寺(現:東本願寺甲府別院光澤寺)
  ・武田信玄が鎌倉常葉町の蛇伏山長延寺(現:横浜市永勝寺)の住職、実了を招いて興しました。
  ・実了の人柄に深く共感した信玄は孫(信親の子)の信道を「顕了」と名乗らせて実了の養子とし、
   寺を手厚く保護しました。
  ・天正10(1582)年、織田信長によって寺は焼失しました。この時、実了は焼死し、顕了は
   長元寺の住職だった栄順によって信州犬飼村に逃れました。


 信玄の家督を継いだ四男で武田勝頼(信親の弟)が天正3(1575)年の「長篠の戦い」 で敗れると、長元寺(現:法流山入明寺)の4世栄順は信親を甲府に呼び戻して匿いましたが、天正 10(1582)年に戦国大名の武田氏が滅びると、信親も長元寺境内で自刃しました。また、信親 の子、信道が養子として迎えられ、顕了と名乗っていた長延寺(現:東本願寺甲府別院光澤寺)も焼 失してしまいました。
 この時栄順は、武田氏の血脈を守るため、当時14歳の信道(顕了)を信州に逃がしました。信道 は信州犬飼村(現:飯田市)に迎えられ、この地に、現在の真言宗大谷派善勝寺を興しました。その後、 徳川の治世になってから信道(顕了)は甲斐に戻り、名を「道快」と改めて、北山筋中郡遠光寺村 (現在光澤寺が建っている場所)に長延寺(現:光澤寺)を再興しましたが、武田家再興に参画した として流罪となりました。寺は信道(顕了)の子、信正(信了)が継ぎましたが、その後、廃寺とな りました。現在の光澤寺は慶長18(1614)年に教如上人が廃寺となっていた長延寺の寺地に興 したものです。

 さて、話を上田地域に戻します。信親(龍宝)の死後、智嶽真海という僧侶が、信親がかつて住んで いた上田市中吉田地区に、海野氏の菩提寺で武田(海野)信親(龍宝)との関わりも深い興善寺住職だ った通山全達大和尚を開山に迎えて「全宗院(興善寺末寺)」を開きました。またこの時、信親の法名 を「潔泉院隆法全宗大禅定門」としました。この「全宗院」は現在でも、上田市の中吉田地区に残って います。

 また、近くの小井戸(上田市豊里)には「龍法寺」という寺院があります。この、「天王山護国龍法寺」 は海野氏が創立したと伝えられていて、天文10(1541)年、海野氏滅亡の時に兵火により焼失しました。 その後、天正年間に眞田氏 (上田市中吉田)  によって再建されたものの、廃寺同様になっていました が、慶長10(1606)年になって、明覚上人によって再興されました。現在では、再び廃寺の状態になっ てしまっているようです。はっきりしたことはわからないのですが、寺の名前から考えると、ここも信親 (龍宝)と関わりがある寺なのかもしれません。

 以上に述べたようなことから考えると、全宗院が武田氏、海野氏との関わりが深い興善寺の僧を開山とし て迎えたのと同様、金窓寺でも開山として武田氏ゆかりの興善寺の僧であった通山全達師を招いた、と考え ることができるのではないでしょうか。

 信親に女子がいたという記録はありませんが、孫に当たる女性(名前や経歴は不明)がいたことがわかっています。 信親と海野氏とのつながりなどを考えると、この女性が「玉窓妙金法尼」なのではないか、と考えることもできそうです。

 また、信親の弟、勝頼には一女(名前はわかりません)があり、6歳の時に駿河国(静岡県)田中に住んで いた高力權左衛門正長に預けられ、後に徳川家康の家臣、宮原勘五郎義久の妻になったという記録があります。 この女性が「玉窓妙金法尼」とも考えられなくはないのですが、やや無理があるようにも思えます。